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新生のらくろ君Aの館

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フィリピン時代その2


フィリピンで過ごした時の日記(2)

その日を出発日(1995年2月1日)として初日はセブ市内のホテルを起点に調査を行うことにした。
最初にセブのDPWHを訪れ、局の役人に挨拶をして、各地域に対する、依頼状を受領した。
このプロジェクトの趣意書には、「最近フィリピンでは落橋事故が多く、社会問題になっている。これに対して、大統領府では、全国の県知事に公共道路省に管轄しているそれぞれの橋梁について調査の指示を出した。又メトロマニラ地区の全橋梁及び最近地震災害があったミンドロの橋梁についても、調査を実施した。この結果から非常に危険な橋梁が数橋発見され、至急、掛け替え工事が実施されることになった。これらの事項をふまえ、全国国道沿いの橋梁調査の実施が必要になった。」
というものだった。

最初は、北部の東海岸沿いに調査を行うことにした。朝は8時前に同行の3人をホテル前に集合させ、リトの車で、地域の役人を1人ガイド役に付けて、ピックアップトラックで5人の珍道中が始まった。小さな村々を通り、前方に橋が見えると降りる。橋の名前は、一応ロードマップ(と言っても観光用のものではない)でセブ市を起点にキロ呈を書いた役所のものだった。最初の橋で、地図と橋名板の名前を確認一致していることを見ながらの旅となった。ただ走るだけなら、北端まで130km程度でありたいしたことはないが、橋が見える度に下車し、橋面の傷みを調べ、高欄などを見た後、橋の下に降りて裏の桁を調査する。殆どが、単純桁の1スパンで、簡単な橋だった。

しかし通常の橋は、鬱蒼と茂る、草をかき分けて、橋の下に降りることは危険もあるし、汚れてしまう。2車線の道路だとだいたい8本から12本程度の桁が有り、その桁には補強のための鉄筋が配置されている。その所々のコンクリートが剥がれて、鉄筋がむき出しとなり、赤くさびているのである。しかしそんな箇所があっても、案内の役人は、一向気にしてはいない。どこの役人も、同じで、怠惰な奴ばかりで、橋の下までは降りてこない。運転手も最初は橋の上から、彼らが調査するのを、ただ見ているだけであった。そこで私は、若いロセールに写真係と、調査を任せて記録はフロールに任せた。2,3橋を終わってもフロールは、橋の上から、桁の数、損傷の具合と位置を大きな声でロセールに聞くだけであり一向橋の下に降りてこようとはしない。
私は、業を煮やして、フロールを叱り、自分の目でも確かめるように指示した。

仕方なく降りてくるフロールは、やはり女であり、きびきびとは行かない。しかしレポートをまとめる必要があり、しっかりと書いておいて貰わねば、後で困るわけで、私は、せかしながら、記録を正確に取るようにとも指示した。
私自身も橋のスケッチと、損傷箇所をそのスケッチの上に書いていった。何しろはじめだから、A,B,Cのどの区分に入れて良いのか判断に窮した。

出発前に、マニラに全員がいるとき評価基準を決めるために数橋見て回り、査定基準は決まっていたはずだが、やはり本番になるとそうもいかなかった。勢い自分流に採点を決めてしまった。

出かける前から、「ボックスカルバート」や「ベイリー橋」など聞き慣れなかったものが、現場に行くやっと飲み込むことが出来た。ボックスカルバートとは、要するに直方体のコンクリートの中をくり抜いた物で、短い橋の代わりに使われる蓋付溝のような物であること、更にベイリー橋は、アメリカ軍が、フィリピン上陸の際に簡易的に組み立てた、トラス状の下路橋で、路床面は木で作られているのが主であった。何れにしても簡便な橋であり、之は恒久的な物ではない。しかし田舎へ行くほど、その数は多く、数を数え、特別に異常のない限りは、彼らはその検査を省略することになっていた。

橋には当然鋼橋と、コンクリート橋があるが、ここセブでは、鋼橋は皆無と言っていいほど見かけなかった。コンクリート橋でもただ鉄筋で補強した(RCと呼ぶ)橋と、プレストレスを掛けて、丈夫にしてある、(PC橋と呼ぶ)があるが、RC橋が殆どであり、PC橋は僅かに見かけるだけであった。ダナオ市に着く頃にはもう昼になっていた。数橋の検査の内で完璧な物はなく何処か鉄筋がむき出しになり、損傷していた。私はフロールにその位置を、また状況をつぶさに書くように命じた。しかし途中でチェックしなかったのは、迂闊であった。フロールは出来の悪い女で、全く表現力に欠けていたし細かいことを書いていなかった。
之が後の集計時に私を焦らせて、黒い犬の前兆を招聘し、且つ体調を壊すきっかけになろうなどとは露ほども思っていなかった。

概してシビルのシニアエンジニアと名乗るくらいだから、私より橋のことはよく知っているはずだとの前提理解が甘かった。私は造船屋である。橋のことは、全くと言い白紙であった。多少鋼橋の部門に配属されていた時期はあったが、全く橋造りには参画したことがない。悲劇であった。

ダナオ市と言っても村を少し大きくした程度である。そこで、昼食となったが、食堂というか屋台を少し立派にしたような一角にアルマイト製の鍋(どれも同じ形をしている)にご飯(ぱさぱさの所謂インディカ米)と、各々、魚、鳥、豚を煮込んだ物(アドボという)が並んでいる。私は、フロール達がやる通り、鍋のふたを開けては、指指して欲しい物を言うと、と言っても無言でよい。そうすると、縁台のような、机に運んでくれる仕掛けになっているらしい。
私は魚とご飯を指さした。そして、出かける前に片平の長老に聞いていた通り、ビール(サンミゲール)を2本注文した。生水を飲むと必ず下痢をすると聞いていたので、ウイスキーの水割りとミネラルウオーターしか飲んだことがなかった。ビール会社はフィリピンではサンミゲール1社しかないビール工場で、瓶は、スタイニーと似た小瓶である。ミネラルウオーターはビールよりも高く付く。長老は、ミスター○○は、必ず食事時にはサンミゲールを注文すると、全員に知らしめておくことが大事だ。それも行動で、といわれたことを思い出して、その様にした。食堂には大抵冷えたビールが置いてあるが、種類は、前にも言った通り田舎ではサンミゲールだけだった。初日からサンミゲールを注文する私を、昼間からアルコールかと冷ややかな目で見る感じであった。

サンミゲールビール

運ばれてきたサンミゲールを、口に当て、ラッパ飲みした。はらわたに染み渡った。そして運ばれてきた魚を見て、それこそギョッとした。青い熱帯魚ではないか。それを如何に煮込んでいるからといって、食べられるものではない。仕方なしに少し箸を付けたが矢張りまずい。諦めて、もう一本のサンミゲールを飲みご飯に魚の汁を少し掛けるだけで食べた。私はこれから先どうしたらいいのか、途中で音を上げるのではないかと、心細くなった。私の出で立ちは、マニラで買った、ポロマークの付いた、木綿の半袖シャツと、だぶだぶのズボン、それにトッちゃん帽子をかぶり、足には立派な作業靴を履いていた。
更にセブのプライベートビーチでなくしたサングラスの代わりに買った上等なレイバンを身につけていた。

正午前に、灼熱の太陽の下でかいた汗は、一時的に癒されたが、また出かけなければならない。カルメン、カトモン、ソゴド迄行き、初日はそこで二またに分かれる国道を海側に取った。
そしてバゴという合流点までを調査して、元来た道を帰った。灼熱の太陽の下、初日の最後は、バテバテであった。私は、車を降りて、橋を調査し記録と写真を撮ったことを確認すると、助手席に戻り、冷房の吹き出し口に顔を当てて涼を取る、その繰り返しだった。
ローカルエンジニアと、案内の役人は後部座席に座っているが、暑いとは言いながら、毎日のこと、比較的平然としていた。初日は35橋の調査、帰りは、6時半頃ホテルに帰着した。

私はセブのパークプレースホテルで、昼食を十分に取れなかった空腹の腹を、ステーキで満たした。それからシャワーを浴び、街へ出かけた。昼間とほぼ似た格好でのお出かけである。リト(運転手)の知り合いに知っている劇場があるというので、名前と場所を聞き、単身で出かけた。マカティにいる時から、単身で街に出る要領を心得ていたので、危険は全く感じなかった。先ずもって、日本人とは思えぬ服装である。お金もぎりぎりぐらいしか持っていかない。全部起点になるホテルの貸金庫に預けておくのだ。

****

2日目は、同じく東海岸を北上し、昨日通ったソゴまでは同じ道を通り、そこから検査を始めた。すこし内陸部に入りボゴまでの間を検査した。セブ島(Cebu Island)は、バナナにも似ていた、またタツノオトシゴや、日本の本州にも似ている。セブ島はフィリピン中部の島で、東はボホール島とレイテ島に、西はネグロス島に対する。南北に細長く全長217km、最大幅は32km。山がちな地形で、最高点は標高692m。海岸部の肥沃な平地ではタバコ・サトウキビ・綿花・コーヒー・トウモロコシなどを産出していた。また、石炭と銅の埋蔵量は国内第一である。おもな産業は衣料品製造・陶器・精糖など。近年は島全体をとりかこむサンゴ礁が、多くの観光客をあつめている。島の面積は4422km2。中心都市は西岸のセブで人口は61万417人(1990年)、周辺の小島をふくむセブ州の人口は264万6000人(1990年)であるという。
 その日の検査はセブ島の最北端のバアンタヤンで終了し、一直線にセブ市のパークプレースホテルまでをひた走った。

夜は、お定まりのコースを取ったのも3日目までだった。セブの夜もマカティのそれとは違わないが、やっぱり寂れているように感じた。
その様にして段々と夜は疲れを休める時間になっていった。
セブ島の東西両岸を走る国道は、一部舗装をしているが、全くの砂利道(ローカルはグラベルと言った)もある。その道を東西に結ぶ道で国道になっているのは、ほんの少しの線しかなかった。その1本に入り込んだ。フィリピンでは珍しい吊り橋があるというのだ。山道をすこし登った。
セブ島は山と言っても、標高は700m以下が2山ある程度で大したことはなかった。ナガからトレド市にでる山越道の中央にその吊り橋はあった。
吊り橋の名前は、カンポ橋といった。おそらくつり橋はフィリピン中で此処だけであろう。少なくとも私の担当地域では、1橋を数えるのみである。
吊り橋といっても、例のベイリー橋のダブル型のようで路床は木でそれを支塔で支え吊っていた。
確かに吊り橋であった。下を見ると恐ろしいくらいの深さで、これをフィリピンで造ったとは思えない。べーリー橋型だから、きっと米軍が作ったに違いない。吊っているロープのシャックル部が破損しかけているのを記録した。しばらくはこのままで使えそうであったが、やがては、本格的な橋を造らなければならない日が早晩きっと来るであろうと私は思った。

フィリピンには多数の言語がある。国語はタガログ語でありそれをフィリピノ語と呼ぶ。
フィリピンは19世紀末まではスペインの植民地で、スペイン語が公用語だった。のちアメリカの植民地となり、公用語は英語にかわった。アメリカに対する独立運動の結果、1935年に憲法が制定され、37年にタガログ語が国語となった経緯がある。
フィリピンは100以上の言語がもちいられている多言語国家といわれているため、ほかの言語を話す人々によるタガログ語に対する不満は小さくなかった。このため1959年、タガログ語をもとに国語としての性格を強めたピリピノ語が制定された。ピリピノ語は、反対運動などのため一時的に公用語からはずされることもあったが、英語とならぶフィリピンの公用語としての地位をたもった。しかし、話し言葉からはなれた人工語としての性格が強く、またいぜんとしてタガログ語中心にかたよっていたため、全国に普及するにはいたらなかった。

そこで、ピリピノ語にのこっていたタガログ語中心の考え方を弱め、フィリピンで話されている他の言語にも配慮したフィリピノ語が登場し、1987年の憲法で国語として規定された。現在、学校教育ではフィリピノ語を用いるべきとされているが、ほかの言語の補助的使用も許されている。

ピリピノ語をフィリピノ語とかえた背景には、タガログ語からはなれたかたちで新しい国語をつくりだしたいという意図がはたらいている。

フィリピンの言語がそんなに多いとは知らず、皆タガログ語で通じると考えたが甘かった。此処セブ島では、セブアノ語を使う。何処が違うのかは全く分からないが、フロールは勿論パナイ島に住むロセールにも分からない言葉があるらしい。ロセールは、アクラノ語を喋る。英語は、公用語であるため簡単な会話は勿論出来る。それがせめてもの救いであった。

セブカンポ橋

吊り橋であるカンポ橋の先は、トレド市まで橋は全部で4橋あるだけであった。それから南方に下った。北部は次の日に回した。トレド市は、セブ島の中では、日本で言えば、新潟市くらいに位置している関係になる(但し向きは南北だが)、そこから、下関に相当するに位置に至るまで日本海に相当するタノン海峡を右に見て、一気に検査して回った。
私は、道以外を見る余裕もないくらい前方をじっと眺めていた。「Mr.○○、ブリッジ!」と言うリトの言葉にどれだけガックリしたか知れない。冷房を効かせた車の中は未だ良いが、一旦外に出ると汗がどっと噴き出した。フロールは相変わらず、楽なように楽なように立ち回る。そのたびに私は、声をからして、「フロール!カムダウン ヒア エンド チェック バイ ユア アイ」と怒鳴らなければならなかった。

道中は、喉が渇く。時々小休止をして、水分を補給する必要がある。初めは私が一々お金のやり取りをしていたが之ではたまらないと、ガソリン代を除いた雑用費は週の初めにフロールに預け、使った領収書と引き替えに金勘定をした。彼らはジュースを飲んだり水を飲むが、私の場合は、最初から「サンミゲール」であった。休憩時には1本、食事時には、2本と相場を決めた。黙っていてもリトがビールを運んで来るようになった。長老の言ったとおりであった。
サンタンデル迄行くと今度は帰りを山陽道に当たる東岸を通った。東側の瀬戸内海に相当するセブ海峡沿いは舗装道路であったので、比較的楽に帰ることが出来た。小学校といわず、学校の屋根には、「Education 2000」と書いてあるのが目を引いた。フィリピンも教育の重要性を考えてのラモス大統領キャンペーンだという。
橋はあってもそこは翌々日の仕事であった。その日もゼブのパークプレースホテルに着いた時は、日は沈んでいた。
ホテルのカウンターバーで、食後のジントニックを飲んで、カウンターの向こう側のウエイトレスと数語会話した。
そのときふと、日本の英語教育のことを思った。

****

明日は、セブ市内と、向かい側のマクタン島を調べることになった。その中には、マクタンブリッジも含まれていた。この橋もまたそのすこし離れたところに現在設計中の第2マクタンブリッジをかける予定だという。

第2マクタンブリッジも日本のゼネコンが施工する予定で、まだ施工前であった。
マクタンブリッジの検査は、船を出して下部を遠くから眺める原始的な方法によるしかなかった。
フロールは例によって、小舟を怖がり、乗らない、ロセールは、かなづちであるが、乗り込んできた。特に異常はなく、小さな船は、石ころの転がった岸に着いた。
船頭にチップを渡すことも忘れなかった。

*******

セブ市内の橋梁検査を終え、ホテルの部屋に戻り、暗がりの中持ってきた地図を眺め、今までの数倍の距離が待っているビサイヤス諸島と、他のチームの進行状態に思いを馳せた。
翌朝、いつものように晴れ渡ったセブの暑い空を眺め、乾期とは全く雨が降らぬことだということを実感した。フロールと、ロセールは安宿に泊まりセブの事務所に来る。リトと一緒に、交代した案内役を立てて、セブ市内に入っていった。マカティにいた時から、聞いていたが、セブは、ジープニーが特に多い。ジープニーは、米軍の軍用ジープを改造して派手な装飾をほどこしたもので、マニラでもみられる独特の交通機関。色彩豊かなジープニーは、主として市内の近距離移動にもちいられ、セブ市民の足として、バスとともに欠かせない交通手段である。私はそのきらびやかさと多さに目を見張った。建鉄時代のアノ男がこれを運用させているのかと思うと一層興味が湧いた。

それと、之が、一番嫌なことであったが、通常橋の下はトイレであることだ。橋の下は、雨が掛からないこともあって、その近辺は、不法占拠の巣になっている。マニラでも之から行く所謂大都市でもそうであろう。案内役の役人を先に立てて、その不法占拠の中に入っていく。我々だけではとても出来ることではなかった。何とその下は予想通りの物があちこちに散乱している。新しいのもあれば、固まったのもある。橋桁の数を数えるくらいでとても長くはいられない。早々に引き上げて次に行く。また同じ調子だ。
その中にスペイン統治時代に作られたとおぼしき石造りのアーチ橋があった。その裏は比較的広く、且つ高かったので、降りてみると、矢張り長年の使用で少なからず傷んでた。
この様に難行を経験した後、またホテルに戻る。
この繰り返しでセブの外周道路と、内部の国道沿いの橋を全部しらみつぶしに回った後、パークプレースホテルを後にして、今まで2回通った道を東海岸沿いにアルガオまで下りていった。

そこから今度の島ボホール島に向けてフェリーを待つことになった。食堂件宿屋といったところに投宿した。此処ではローカルも一緒の宿だ。時間があったので、近くの海岸で泳いだが、水は余り綺麗ではない。観光地でないので、当たり前か、またそうだから観光地にならないのであろう。
一汗流して例の食事を取り、明日のフェリーの出発を尋ねると、8時だという。
早いのでもう少し遅い便にしようと言うと、正午までないという。やれやれと思いながら仕方なく早起きをする羽目になった。といっても粗末な宿、寝る以外にないので、かえって早いほうが、助かるという気持ちもあった。
フロール達は、食事後早々と自分たちの部屋に帰っていった。
ロセールとリトは1部屋で、フロールは別の部屋である。
私は、その宿の最高級の部屋にしてもらったが、結局は木賃宿、大差はなかった。

7時には食事をして、船着き場に出て、フェリーの到着を待った。ぞろぞろとフェリーに乗るべく島の人達も集まってきた。しかし、車の数は少なく、車は矢張り庶民には、まだまだ手の届かぬ代物であるらしい。8時になっても船の姿は見えない、どうしたのかと聞くとなにやら波が高いので、遅れているらしい。そのうち、ロセールが2時間は遅れるとの情報を得てきた。「ミスター○○、大体こんな物ですよ、一旦宿に帰りましょう」という。自嘲的ではあったが別に気にする風でもない。マニラを出発する時、PALの件を思い出し、私自身も何故か納得した。

2時間後の出直しで、更に30分待たされ、やっとフェリーの姿が現れた。乗船券と、車代とを払い船上にはいる。船の中は何もなく、船は瀬戸内海の日通フェリーをすこし大きくしたようなものだったが、遙かに船齢は経ていると感じられた。フロール達に造船屋としての蘊蓄を傾けたが、彼らが納得したかどうかは分からない。「ミスター○○、着くまで4時間は掛かりますよ」とロセールが言う。無聊に所在なくしていると、2人組の男達が話しかけてきた。太った男と、その友達は、私にしきりに日本に行ったことがあり、今も日本から帰って、家に帰るところだという。日本語を知っていると自慢して「三段腹」とか何とか言って自分の腹を見せ、私を笑わせた。観光なら俺の家に来いという、「ご馳走するよ」と、仲良くなったが、残念ながら「仕事だよ」というと、本当に残念そうだった。

セブ海峡は幅が30km程度であったが、10数ノットしか出ない上に波があるので、結局ロセールの言う通り4時間ぐらいは乗っていなくてはならなかった。瀬戸内海の宇野から高松へ行くのとはすこし長い距離であったが、時間は4倍も掛かってしまった。やっとボホール島の姿が見え始めた頃、くだんの太っちょともう一人は、彼の傍から離れていた。

船着き場はローンと呼ばれる小さな町だった。ぞろぞろと、人達が下りていく。その後を私たちのピックアップは、船外に出て上陸を果たした。リトは、通行料金チェックのために検問所のようなところへ入り、その間また少し待たされた。振り返ったが、セブ島は、もう霞んで見えなかった。
道路に出ると例の太っちょ二人組が歩いているので、家まで乗せてやるというと喜んで乗り込んできた。勿論荷台である。太っちょ達をおろし私たちは島の首都とも言うべきタグビラランに到着した。

宿探しから始まったが、タグビララン市内から南に下りたパングラオ島のアロナビーチは観光スポットであるという、リゾートホテルがあるといった。このあたりは日本人が良く来てダイビングをする綺麗な場所があるらしい。しかし、私は、明日からのことを考えて、市内に泊まることにした。
市内でも最高級のホテルに投宿したが、伝統のあるホテルらしく薄暗い部屋であった。
フロール達は安宿を見つけるためその場で別れ、私は、明日、8時に迎えに来るように言った。
こうして、タグビラランの第一夜が始まった。

『セブ島の東に位置するボホール島はフィリピンで10番目に大きい島。中心となるのは、島の南西にある州都タグビララン。ホテルや店、学校など、ほとんどの機関が街周辺に集中し、セブやドゥマゲッティなどへ行くフェリーもこの港から出る(セブ・ボホール間は高速艇〈スーパーキャット〉で約1時間30分)。タグビラランから橋でつながるパングラオ島は、美しいビーチをもった島。ボホール・ビーチ・クラブ(ホテル)のプライベートビーチは白砂で美しい。隣のアロナビーチには7軒ほどのダイビングサービスがある。』とか

『セブ島同様にフィリピン近代史がスタートした歴史的な島だ。1565年、首長シカトゥナとスペインの殖民者レガスピとの間で血の同盟が交わされたのを機に本格的な植民地政策とカトリック布教が開始された。
1774年にボホール人のタゴホイの抵抗運動が勝利し、植民地フィリピンのなかにあっては85年間も独立を享受した歴史をもっている。太平洋戦争で一時平和が乱されたが終戦とともに平和が戻った。フィリピン14代大統領ガルシアは同島タリポンの出身だ。
人口は島全体で95万人、州都タグビララン市が6万人、バングラオ島が4万人、人工的な開発が少なく自然がふんだんに残った楽園だ。』
と観光や、日本人旅行者の体験は殆どが、ダイビングの記事で一杯である。
私にはスーパーキャットなる高速艇には縁がなかった。仕事だ仕事!と割り切っても何とも恨めしい。
その夜は、外出して、街を見回したが、寂れた田舎町という印象以外には、何ら得るところはなかった。ふと道ばたのネオンと言っても街灯を見ると「karaoke」と書いた看板があるではないか。
マカティを思い出し、薄暗い路地を入り、店にはいるのに、入場料として、20ペソを取られた。受付の女性はさほど綺麗なことはなく、私の興味を引くものではなかった。

店にはいると薄暗く、丸いテーブルと、演壇のようなものがあり、そこに立って歌うも良し、又席で酒を飲み歌うも良い。曲もタガログ語と英語しかない。考えてみればそれが当然であったが、マカティのような日本語の曲はないのであった。
仕方なく私は、知っている英語の曲をなんとか拾い出し、注文する。流れる曲に合わせて久し振りに「アラモの砦」の主題歌を歌った。懐かしのジョンウェインを思い出しながら。
しばらく歌っていると、私の英語の歌のレパートリーは底をついた。

周りのフィリピン人はそれぞれ談笑したり、タガログの曲を歌ったりして、楽しんでいた。
もちろん日本人は私一人であった。

ようやく腰を上げ、店を出ようとすると中にいた娘がいつの間にかいなくなって、店の窓口に座っていた。
どうも受付は輪番制のようである。

******

外に出て、町外れ迄、といっても数分歩いただけだが、他に何もなさそうなので、その日はジーガーデンホテルに帰った。ボホールの調査の起点はそのホテルになり、毎夜通うのはその「karaoke」の店となった。

翌日は、ボホール島の役所に訪れて、案内役を頼んだ。ボホール島は団子の様な島で、之も東海岸沿いと、西海岸沿いの道、それにロアイからタリボンに至る島に中央を縦断する道の3つのルートが私たちを待ち受けていた。最初は西海岸沿いの道を検査した。フェリーの着岸町のローンを過ぎて、タリボンまでの橋をしらみつぶしに調査していった。
特に印象に残る橋もなく淡々と、しかも灼熱の太陽の下で我々の作業はこつこつと続いた。東海岸沿いは何故かすんなりと調査が終わり、タリボンを折り返し点に帰りはタグビラランまでをひた走った。
リトは、サングラスを外し、夜道をハンドルにしがみつくように前方を凝視しながらスピードを上げた。

フロールとロセールは後部座席で、正体無く眠っている。
私は、車で眠る特技はない。ましてフィリピン人と心中したくもないので、張りつめた気持ちで、時々リトに話しかけながら、夜道を帰途についた。
その日の夜も例の「karaoke」へ行き、また同じ歌を歌った。常連の客は、変わった日本人が又来ているとの顔をしているようにも思われた。店の女の子は若い割にしっかりしていて会話は上手に乗ってくる。頭は良さそうだった。
 聞いてみると、マニラはおろか、セブにも言ったことがないと言う。その娘の姉はジャパ行きさんで、今は日本の何処かにいるのだろうと一寸天井を見つめた。

此処にもフィリピンの生活があると私は感じ、又ホテルへと帰っていった。
第2夜もなんの変哲もなく終わった。ジーガーデンホテルのスペイン調の家具がある部屋は、相当年代を経たものであることが分かる。

翌朝は東海岸を調査することにした。途中にバクラヨン教会があった。その道を一寸横道にそれるとロボック教会がある。この紹介は、エリアガイドから借用する。
『 “血の同盟”記念碑
みどころに値するか否かはともかく、市内から東にバタラヨンへ向かう道すがら、海辺にひっそりと建っている。マジェランが1521年4月にセブ島に上陸から44年後の1565年3月中旬、この統治したスぺインの初代総督ミゲル・ペス・レガスピは艦隊を率いてボホールへ来島。この碑が建っている沖合に錨を降ろして上陸した。やがて彼は島の酋長ジカツナとの間で友好条約締結にこぎつけた。この時の儀式が血の同盟“Blood compact”といわれるもので、互いの腕を切って滴る血をカップのワインに落とし、両者の部下の面前で相手のカップを飲み干したという。記念碑にはその時の模様を描いた絵も掲げられている。』
と一寸生臭いが、掲げられた絵と、その記念碑を私は興味深く見た。
やはり田舎に来ると、アメリカの実利とは違う、スペイン系の臭いが濃くなるのは、尤もなことだと感心してしまった。

もう一つのバクラヨン教会へも行ってみた。
フロールとロセールも自国とはいいながら、此処までは来たことがない。一緒に興味深そうに見学をした。又観光ブックからの借用
『バクラヨン教会
市内から7km。、車で約15分。“血の同盟”記念碑から間もないところにある。バクラヨン教会は1595年建造の、フィリピンでも最古の部類に入る教会だ。外観もさりながら、歴史の重みを漂よわせる内部を見学してみよう。ステンド・グラスを通った柔らかを光が、古びて静ひつな空間におごそかな彩りを添えている。教一会に隣接して小さなミュージアムがある。
スペイン時代の貴重品や資料が展示されている。マルコス政権当時、イメルダが2、3度ここを訪れたことがあり、貴重品を何点か持ち出し、なかには亡命先のハワイへ持ち去ったものもあるそうだ。欲の権化イメルダらしいエピソードではないか。蛇足だが、ボホールではいまだにマルコス支持の島民が多いという。
 
教会の前は長い砂浜Baclayon Beach。パブリック・ビーチである。沖に見える小島はパミラカン島Pamilacan Isl.。宿泊コテージもいくつかある。バンカで約45分。料金は150ペソ見当とかなり高いが、非旅行コースだから仕方ないだろう。この島へ渡る日本人旅行者はまずいないが、欧米人ではいる。欧米人のの旺盛な好奇心と行動力、それと経済観念には脱帽する。
欧米人らは市場の開かれる水曜と、教会の礼拝がある日曜日を狙う。午後帰島する漁師のバンカに便乗するのだ。これなら数ペソで済む。なにオレだって、と思う人は15時頃までに行くこと。島民はその頃引きあげるからだ。島民の船は、島に向かって右側の桟橋に集まっている。』

と此処でも、スペイン教会の素晴らしさ、又大航海時代の冒険心旺盛な欧米人と比べ、何処に出るのも億劫な、鎖国政策の島国根性の日本人の血の違いを感じてしまった。バクラヨンの教会内部は、正に中世を思わせる荘厳なもので、しっとりした中に威厳を感じ、此処なら私も自分の半生を懺悔しても良いかなと感じたりした。

その日は、バクラヨンの見学で時間を食ってしまったので、東海岸は半分の検査にせざるを得なかった。丁度ハーフウェイのグインダルマで日没となったので、又来た道を帰りの途についた。
何しろ一旦街をでると、旅館というものがない。勢い、日没後ベースキャンプまで帰らなければならない。これがリトの仕事といえばそれまでだが、彼は例によって、ハンドルに覆い被さるようにして、慎重な中にも、スピードを上げた。
またその夜も例の「karaoke」へ行く。ほかに何の楽しみも無く、ただサンミゲールのありがたさを感じた。
明日は東海岸の残りを検査しなければならない。今日は一寸した観光気分にも浸れたし、良い日だった。

翌朝はグインドルマンまでは、気楽なドライブであり、昨日見たバクラヨン教会を通り過ぎて、ゆったりした気分であった。
バクラヨンからは、例の如しで、殆ど変わらぬ風景に見とれるまもなく、橋が前方に見える。
リトが「ミスター○○、ブリッジ」といって車を路肩に寄せる。又フロールに「カム ダウン ヒア」
といって、鼓舞する。そこから北の終点タリボンまでは、調査橋の数もその日は20橋程度と少なかった。
通常は日に35橋か多い時は50橋を数える強行軍である。それからすると楽な1日であった。
明日は山道に入る。途中には、ロボック教会や、この島の最大の名所チョコレートヒルズがある。
フロール達も心待ちにしているようだ。
明日も観光半分だと思いながら、残り少ないボホールでの話を例の「karaoke」の娘に話した。
「あとどのくらいいるの」「そう、2日ぐらいかな」ともう彼女が自分の娘のような感情になっていた私は、優しくその娘の顔を見た。
翌日は、朝早くバクラヨンを過ぎ、ロアイから、山の道へと入っていった。
途中暫くいくと、白壁のロボック教会が見えた。
此処でも観光書の引用をする。
『ロボック教会。
鐘楼と別建ての珍しい建築様式のロボック教会(Loboc Church)はバタラヨンから約16km。チョコレート・ヒルへの途中にある。1602年建造で、礼拝堂と鐘楼の建物が道路をはさんで別々に建っている。両者は一体のものとして建造されるのが普通で、こういう特殊な建て方は珍しく、ボホールでも唯一のものという。みどころというより、沿道の風景として眺めればいいだろう。ところで、ロボックにはミュージック・タウンMusic Townの愛称かある.コーラスの水準がセブ、シキホールなど周辺の島々のなかでも抜群に高く、毎年マニラで開かれる全国大会に参加する。81年度優勝の実績があるそうだ。

 話は前後するが、ロボックのひとつ手前の町はロアイLoayだ。ロアイとロボック間にはロボック川(Loboc River)という水量豊かな川が流れ、2つの町を結ぶポート・クルーズもある。所要約45分。ロボック周辺は滝や水力発電プラントがあり、水資青原が豊かだ。ロボックのひとつ先の町ビラール(Bilar)では一面の水田風景が見られる。カルノン方面へ向かって左手、水田の中にはボホール農大(Bohol Agriculture College)がある。日本の国際協力事業団(JICA)のメンバーが、フィリピン各地で活曜しているが、このボホール農大でも日本人が水田耕作の指導に当たっている。ボホールの米は隣のセブに移出されている。ばろぼろのセブ米に比べるとボホール米は良質で、ずっと食べやすい。セブ島民はトウモロコシが主食で、地域によっては1日1食というところもあるそうだが、ボホール島民は1日3食米食できるという。それだけ収穫量も豊かなのであろう。』

私はそこに途中まで建造途中で放り投げられた橋を発見した、フロール達に聞くと、教会が土地を譲渡しないので、工事がストップしているという。日本でも民家が立ち退かないのでという話は聞くが、教会が相手となると、そうそう役人も簡単にはいかないらしい。ぶった切られたように橋は途中で中ぶらりのまま止まっていた。

橋の調査も忘れるほどに、興味深かった、ロボック教会を後にして走ること、カルメン市の手前で、チョコレートヒルズに寄り道した。駐車場から、展望台までの長い階段を上ると、眼前に偉容な風景が目に飛び込んできた。丁度、三角のプチチョコを立てたような山が一面に見渡せる。此処でもガイドブックの助けを借りると、

『チョコレート.ヒル
 市内から車で直行すれば1時間だ。チョコレート・ヒルはボホール島のほぼ中央部バトゥアン(Batuan)とカルメン(Carmen)の間に位置する。幼い子供が作る砂山を思わせるなだらかな円錘型の丘が、周囲一帯に延々と連なっている。その数1001個、高さはどれも約30mとほぼ一定といわれ、型伏も同様だ。それだけに展望台からの眺めは日光の具合で無気味にも幻想的にも見え、なんとも不思議な感覚に包まれる。チョコレート・ヒルいう呼称は、丘を覆う緑の草が4~6月の乾季にチョコレート・ブラウンに変わることに由来する。実際にその時期の眺めは、無数の巨大なチョコレート・ドロップを敷きつめたようだという。

展望台から見たチョコレートヒルズ

チョコレート・ヒルの創生過程に関しては地質学的に諸説あるようだ。大別すると有史以前この地は海底にあり、海底噴火で山ができた。それらの山が海流よって削られ、現在のように丸みた高さ一定の丘を創ったという説。もう一方は、もっと単純で、海底の石灰積層の特殊な風化によるものとする説だ。今のところ後者が有力らしい。
いずれにしても、丘の頂上から貝が多数発見されていることで、太古には海中にあったことは事実だろう。こういう学説とは別に、チョコレート・ヒルには2つの伝説があるそうだ。一つは、昔、2人の巨人がいて、彼らは石と砂を投げ合ってケンカしていた。しかし2人ともしまいには疲れてしまい、仲直りして島を離れた。ところがケンカの場所の後片づけをしなかったため、投げ合った石と砂がそのまま残ってしまった。之がチョコレート・ヒルになった-。
 もうひとつは、非常に力の強い巨人の青年Arogoが従順な女性Aloyaに恋をした。
アロヤが死に、アロゴは悲痛に泣きくずれた。彼の涙がチョコレート・ヒルになった。味気ない学説とは雲泥の差のロマン。実際の風景を眺めていると、伝説が語る創生に現実味がある気がしてくる。
いや、そういう感覚で眺めたほうがチョコレート・ヒルは楽しいのだ。入園料1ペソ。駐車場から展望台への階段は214段ある。』

私は後者の方を信じたい気分になっていた。とかく技術屋は夢がない。というか理屈に合わぬ事を嫌う習性がある。かの「TVタックル」のUFO論争などもそうだ。
早稲田のO教授などは、絶対にあり得ないという。しかし、彼の度量は狭いと思う。向かう相手が如何にもインチキ臭い反論をする。之が頂けない。そうでなかったら、もっと面白いと思う。
昔UFOの写真を集めた雑誌「コズモ」が発刊されていた。一時購読したが、魔可不思議な現象が書いてある。
かく言う私も、昔造船所のドックヤードでUFOを目撃しているのだ。
世の中には、人間の計り知れないことが山のようにある。それを解き明かすのが科学者の役目であろうが、何とも夢をぶちこわす仕事と裏腹であることに一種のアイロニーを感じた。

感動を受け、チョコレートヒルズを見渡せる展望台を降りて、その先の調査にも身が入った。その日は、カルメンからタリボンまで出て、その帰りは漆黒の闇の中脇目もふらずにリトは運転した。
この頃になるとようやくみんなの気心が知れるようになった。それまでは、後部座席でフロールとロセールがタガログ語を話していると、どうしても私の悪口に聞こえ、「こら、英語で喋れ、でないと何を言っているのかわからん」と怒鳴ったりしたものだった。
ジーガーデンホテルに戻った時は、流石にぐったりと疲れていた。しかし可愛い娘の所へは最後の挨拶にいかねばならない。一緒に歌い、且つチョコレートヒルズの感動を話すと、とても目を光らせてくれたのが、より一層彼女をチャーミングに見せてくれた。

ホテルにファックスが来ていたのに依ると、区切りの良いところで一旦マニラに帰って(外人部隊だけ)中間報告と今後の見通しを説明することになっていた。
フロールとロセールはその間にセキホー島に渡って、数少ない橋の調査をして待っていることになった。2人によるとセキホー島は悪魔の島と恐れられ、呪いを掛けられると大変であるとの話をまことしやかに話していた。唾を掛けられると、呪いにはまるという。ミスター○○は、運が良い。我々も怖いがフィリピン人なので大丈夫だとも言う。日本ではさぞかし恐山的なところなのであろう。
それにしても南国の怪談は余り真に迫ってこなかった。

此処で、旅行案内から拝借
『セキホー島
ドマゲティ市の南南東25km。島自体ひとつの州に指定きれている。フィリピンで最小の州だという。人口7万人、主な町はシキホー(Siqlijor)、ラレナ(Larena)、マリア(Maria)、ラシ(Lazi)の4つ。このうちシキホー、テレナ、ラシにはネグロスをはじめセブ、ボホール、ミンダナオなど周辺の島々を結ぶ船の泊地がある。中心はむろん州都のシキホーで、ドマゲティの港から出るフェリーもシキホーの桟橋につく。ただし、風向、天候次第では約5km西側のタンビサン(Tambisan)に入ることもある。ここには桟橋はなく、足舟に乗り換えて岩場から上睦する。シキホー島が太古に海中にあったことが、島中央部のマラバホタ山(Mt.Malabahog)(628m)から出土する貝の化石などで証明されている。
 また、フィリピン人の間ではミステリアスな島ととらえられている。というのも実際いまだにこの島では黒魔術が行われ、数々の奇習が行われているせいらしい。さて、肝心のダイビング・ポイントだが、まずシキホーからタギポ(Tagibo)にかけて西岸の沖合一帯。6mほどからいっきに30~50mのドロップ・オフになるのが特徴。長い白砂のビーチもある。またサン・ファン(SanJuan)周辺はサンゴの群生地域だ。
 もうひとつは北東部のエンリケ・ヴイラヌエパ(EnriqueVillanueva)からサラタ・ド・オング(SalagDo-Ong)にかけての沖合。水中のゐならず海岸も白い砂浜が延々と伸びている。とくにサラグ・ド・オンタの美しいビ-チは地元民にも人気が高く、スノーケリングにも好適。しかし、シキホー島の難点は宿泊施設が皆無に近く、島内の交通機関はトライシクルかジープニー、しかも道路状態が劣悪であること。もっともこの為に接近するのはネグロス島からダイビング・ポートでやってくるダイバーがほとんどで、彼らは島に滞在したり見物したりしないので問題ないだろう。』

後の事は2人、いやリトと3人に任せ、私はタグビララン空港からマニラへと帰ることにした。今度彼らに落ち合うのはネグロス島の、ネグロスオリエンタルの州都、ドマゲティとすることにし、彼らと別れた。その飛行機は、マニラ直行便ではなく、セブを経由する便であった。更に、フィリピンでは、ベニグノ・アキノ大統領暗殺の時から爆発物などの検査が厳しく、練り歯磨きもその対象になっていた。プラスチック爆弾を想定しているらしく、空港で預け到着時に受け取ることになった。

飛行機は相変わらず遅れる。イライラして待つが、なかなか出そうにない。之ではマニラまで帰り着くのが苦しいかと思うころやっと搭乗する飛行機が現れ搭乗した。セブに到着し別便に乗り換える必要があった。トランジット時は、セブはかなりの厳戒態勢が引かれていた。係の者に聞くと、日本の要人が来るという。首相が来るのかどうか確認出来なかったが、その時私はどさくさに紛れ、歯磨きのペーストを貰い受けることを忘れていることに気が付いた。係の者に言うと、あちこちと引っ張り回されやっとくだんの歯磨きチューブを手に入れることが出来た。
それからマニラ行きの飛行機に乗り換えようとすると、厳戒態勢で、空路は、混乱し、今日中につく便は満員であるとフロントに断られた。
冗談じゃない「マネージャーを呼べ、私は、今日中に会わなければならないクライアントが待っているだ何とかしろ」というと、マネージャーは暫く私を待たしていたが、「之は特別な計らいだ1席あいているので最終便に乗れる」と言ってきた。
粘り強く交渉し、ちょっとした嘘をついた私の方便も功を奏したらしい。

やっとの思いで、マニラ国際空港のドメスティック飛行場にたどり着いた。セブから電話をしていたので、片平の長老の運転手であるサントスが空港まで迎えに来てくれていた。聞くと、私の運転手のジョーは事故を起こし、謹慎させられているという。しかし自分が乗っている時でなくて良かったと内心ホッとした。アキノ空港から、とにかく一旦チェックアウトしているアモルソロマンションに行き、数日泊まることになった。

****

翌日は久し振りにさっぱりした顔で、事務所のボナベンチャーに出かけた。外人部隊といっても一人を除いて日本人だが、三々五々帰ってきた。進捗状況などを話している内、私の地域の橋数がかなり多いことに気づいた。やっぱりアメリカ人は狡い、かなりな進捗状況だった。
本土ルソン島では、往復することなく宿場宿があるので非常に効率的なわけだ。
でもその様なことは、今となっては、関係のないことだった。チームで競争をしているわけではなく、遅れたところは助っ人が出るように決めてあるのだから。とは言っても、私は、人に手助けして貰うようなことは嫌だと考えた。ボナベンチャーでの約1週間のミーティングが終わり又それぞれの任地に散っていく日が近づいてきた。

片平には2人の女性秘書がいた。二人ともフィリピン大学(UP:日本の東大)での才媛であるらしかった。その1週間のうちに彼女達と、食事をした。エイ・アールと呼ばれる女性と、マリンダと呼ばれる女性がいたが、どちらも魅力的な女性であった。エイ・アールは、もうすぐ結婚すると言っていたが、二人ともなかなかのしっかり者だった。

結婚祝いにと、片平の長老と同事務所の連中で、何か贈り物をしようと言うことになり、その約束の日、シャングリラ百貨店を一回りしたが、遠慮深く、結局は何も買うものは決まらなかった。

再出発の日が近づいてきた。
道路調査のプロジェクトの女性秘書が、航空券を渡し、ドマゲティで、フロール達が待っていることを告げた。

謹慎の解けたジョーに送られて、アキノ空港に向かった。待合室で、年の頃は、25-6のフィリピン女性に声を掛けられた。「日本から来たのですか」日本語だった。PALが遅れても気にならなかったのは、この1回だけだっだかもしれない。日本語が巧みなその女性は、矢張りジャパ行き経験者であり。片言ながら日本語も話せた。
私は、英語の勉強だということで、英語で話しかけると英語で答えが返ってくる。彼女は、ミンダナオ島のダバオに帰るという。
私が「ミンダナオはテリブルだ、NPAがいるから」というと彼女は「そんなことはない。良いところだから一度遊びに来て下さい」と外交辞令を言った。
今は、モロ・イスラムの根拠地だから山間部はかなり危険のようである。

それよりも仕事優先、早くドマゲティにいかなければならなかった。「仕事が待っているから・・・」というと至極自然に「残念ですね、なんのお仕事?」と聞いたので、私は、臆面もなく「Bridge Engineerだ。フィリピンのために仕事をしているのだ」と答えると、彼女は友好のほほえみを返してきた。

NPAはノースコタバトやその山岳地方に勢力を持ち、フィリピン政府も手を焼いているようだが、大都市であるダバオや、カガヤン・デ・オロなどは大丈夫のようだった。
ダバオ行きの飛行機の方が先に飛び立った。当の彼女は軽やかに歩いて、2度振り返った後、機上の人となるべくゲート内に消えていった。
暫くして、ドマゲティ直行便が来たので私も機上の人となり、フロール達が待つであろうドマゲティに向かって飛び立った。


<続く>




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